考えるイヌ〜桜井政成研究室〜

研究メモ、ゼミなどの教育活動、その他関心事など。

二つの世界は一人の身体の中に:福島のこと

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ふくしま会議の佐藤健太さんとひょんなことで邂逅した。初対面は学生交えての呑み会の場だったから、明るくノリの良いお兄ちゃんという感じだったが、話をして惹き付けられた。彼が素敵なのは、福島の「負」の部分と向き合ってそれへの運動をしつつ、未来を想像する取り組み…といえば重たいが、軽いノリで楽しく、誰でも参加できるイベントにも積極的に関わっているのだ。

私の中で、福島は二つの<世界>に分かれていた。一つは放射能にまみれ、希望が持てない世界。もう一つは、その放射能を気にせず(少なくとも傍目にはそう見えてしまう)、復興に邁進する世界。どちらが現実の福島なのだろう?たぶん、ある部分においては、どちらも現実なのだと思う。どちらも間違ってはいないのかもしれない。しかし、その二つの<世界>はまったくの対極にあるので、どうにも、自分の中で一つの像を結ばなかったのだ。

その私の逡巡を、酔った勢いとはいえ、不躾にも直接、佐藤さんにぶつけてしまった。彼は、私の疑問を正面から受け止め、真摯に答えてくださった。

彼はこう言った(と思う…。以下、意訳にて、責任は私に帰す)。福島の放射能の問題は確かに深刻だ。それについては、自分も、被ばく手帳をつくるなどの運動をしてきた。しかしそれは、自分の代で完結させたい。難しい問題を先送りしたくない。若い人には、明るい未来を創ってほしい。その先導も自分はしたいのだ、と。
(被ばく手帳については、こちらの記事を参照→日経ビジネスオンライン「立ち上がった2つの「被ばく手帳」」

ああそうか。なんだ。こうやって、一人の人の中に、矛盾する<世界>を完結させることができるのだ、と、目からウロコだった。被ばくした(させられた)という事実には対応しなければならない。しかしだからといって、それにとらわれすぎてもいない。逆に、福島の復興はこれから(このフレーズも佐藤さんはくり返し言っていた)だから、元気よくやっていかなければならないが、だからといって放射能の問題から目を背けることもない。

一身のうちに、矛盾は認めつつ、行動している佐藤さんの姿。その姿こそが福島の希望を体現しているのではないかと感じた。

また彼は、ふくしま会議をふり返って、それ自体は成果を生まなかったが、ひとつのきっかけとなって、様々な展開が生まれている。それが成果だと語った。しかし私は、あの時ユーストリームで見ていたが、ふくしま会議自体、画期的な場であったと思うと伝えた。

福島第一原発事故後、リスクコミュニケーションについて私は関心を持って、ネットで調べてみた。しかしそれは、震災前は、ごみ処理場が住民をどう「説得」するかのツールとしてのみ、行政で使われていた。ああ、放射能の問題で、政府がまったく市民の意見を聴かないのは、さもありなんだなと思った。

放射性廃棄物の問題は、政府の無策への反発で運動が各地で起きた。しかしそれは、なぜか、いつのまにか、「被災地対被災地以外の地域」という対立の構図に貶められた。もはや、原発の問題に関してのディスコミュニケーションは、日本では、もう取り返しが付かないところまできてしまっていると思っていた。

そんなときに開催されたのが、ふくしま会議だった。参加者が対等な立場で議論、というあの取り組みは、リスクコミュニケーション的な観点からも、画期的だった。あの取り組みはあの時点で、ひとつの希望だった。

そんなことを伝えると、佐藤さんも、既存の運動のあり方は限界を感じていると語っていた。対立からは何も生まれない。前向きに解決方法を、市民参加で探る方法をつくっていかなければだめなんだと。ふくしま会議ではそれを追及したかったのだと。(これも意訳です…)

日本の震災後の「絶望」は、福島にもっとも顕著に現れていて、それがある種のシンボル化もしているのだが、しかし逆に「希望」も、福島でこそ現れて来ている。そこに日本全体の復興のヒントがあるかのようでもある。

そしてその希望を与えるのは人であるのだとつくづく思った。

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