考えるイヌ〜桜井政成研究室〜

研究メモ、ゼミなどの教育活動、その他関心事など。

メタファーとしてのお稽古事(卒論をどう考えるか その2)

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学生の時分、とある流派の茶道のお教室に通っていたことがある。といっても半年足らずでやめてしまったので、何もものになっていないのだが。(今考えるととても勿体ないことをした)

そのお教室は、ある大学の授業に組み込まれていたので、夏休みを挟み、1年で30回程度あった。最後に試験を受けてパスすれば、その流派の施設で使える会員証が頂けるはずであった。ご存じの方もいると思うが、茶道の資格は何段階にも別れていて、たぶんそれは一番初心者の資格に相当するのだろう。(なにせ途中でリタイヤしたから記憶が曖昧です。悪しからず)

お教室は毎回厳しく、また先生もなかなか怖かった。(それがやめた理由ではありません。念のため!)
しかし日々のお稽古では楽しみもあった。毎回最後に先生がお茶を点てて下さるのだ。もちろんお茶菓子も出る。私が和菓子に目覚めたのはその時だ。また、夏休み前には自分用に焼かれるお茶碗に絵付けをさせてもらえるというイベントもあった。夏休み明け、それを受け取る前にやめてしまったのだが…(ああ)。
しかし、アメとムチが上手に配置されていて、今考えるとよくできたカリキュラムであったなと思う。

ただ、とにかく初めは何が何だか分からなかったことを印象深く覚えている。
一つ一つの所作の記憶と練習をさせられるのだが、それらが何のための動作なのか、まず分からない。
しかし何回も繰り返し同じ動きをするうちに、覚える。そして実際にお茶を点ててみると、なんとなく、なぜそのような動作が必要か分かってくる。そして気になり、動作の持つ「意味」を調べたり、訊いたりするようになる。

ここで翻って、卒論執筆、である。

自分で調べ、データを分析しまとめるというリサーチスキルを向上させることは、社会人になってからも企画立案能力として発揮されるだろう。しかしそんな表面的なスキルだけでなく、論文を書くという一連の作業を通じ、高等教育修了者にふさわしい「知的なふるまい」とも言うべき暗黙知の精神性・スタイルを身につけることが出来ると考える。

たとえば学術論文というのは難解なようでいて、その形式には一定の「型」があり、それを理解すると全文読まなくても内容を把握できるようになる。それだけではなく、その論文の探し方や、調査方法というものを理解すること。さらには論文の書き方の作法を学ぶこと、、、これらはすべて、「型」の習得行為であり、武術やお稽古事全般に通じるものである。

あるいはもっと大事かも知れない、各々の学問分野の「考え方」の習得ができる。
よく就職活動の面接などで、「何学部ですか?」と訊かれることもあるだろう。
これは何を勉強しているのか、というよりも、あなたはどんな「考え方」のスタイルを学んでいるのか、ということをきいていることが多いのだと思う。

心理学なら心理学の、経営学なら経営学の、独自の「考え方」がある。
ここでの「考え方」とは、何か物事を考える際にとっかかりとなる問いの立て方自体、あるいはその問いの回答の仕方に一定の「こだわり」があるということ。例えば「子育て」について考えるとき、あえて分かりやすく区別すれば、心理学では親と子の心理に焦点が当たるだろうし、経営学ではワークライフバランスに焦点が当たるだろう。

つまりここで私は、プロのリサーチャーのトレーニングとしてではなく、「お稽古ごと」としての卒業論文執筆というスタンスを提案したいと思っている。それは有り、ではないかと。
そこで何が目標になるかというと、高度知的社会を渡り歩いていくために最低限必要となる「所作」の獲得である。茶道を習っていた人のたたずまいが美しいように、ある一定のトレーニングによって身につけた「型」は日常生活でもにじみ出るものである。茶道を習う人全てが茶道のお師匠を目指すとも思えない。むしろ、その美しいたたずまいにあこがれ、それを身につけたいと思い、習う人も多いのではなかろうか。

ここで大事となるのは、「型」の習得がまずあって、そこに内在している精神性は、非常に段取りよく組まれたお稽古スケジュールの中で追い追い理解できるようにする、ということ。その学問領域における問いの立て方、分析手法、論文の書き方を部分部分理解しつつ、どうそれらを統合して「作品」を仕上げるのか。これは一年間、あるいは数年間のゼミナール活動を通じて行っていくべきことである。そして卒論を書き上げるというアウトプットがなされることで、いわば、お稽古した成果の「お披露目」となる。最後にその道の先達から「よし」がでることで、その学術コミュニティの一員としての初心者免許が頂けるのである。

卒論執筆という、長期的かつ計画的な学術的訓練行為のなかで、その学問領域で培われてきた「考え方」を、たとえごくごくさわりの部分だけであっても身につけることは、何も「型」を身につけなかった者よりは、その後の知的生産性を求められる諸場面においてインフラストラクチャーの部分で差がつくはずである。
このように卒論執筆のメタファーとしてお稽古事をつかってみると、卒論執筆の意義と、それを身につけるためのトレーニングスケジュールがある程度、構成されてくる気がする。
来年度以降、私のゼミの一つのスタンスを形成すると思います。

(この卒論メタファーとしてのお稽古事、U先生あたりが書いてそうですね。でもU先生のブログは膨大すぎて、検索不可能でした。お稽古事のマナー違反である「剽窃」になっていないことを祈るばかりです…)

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