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桜井政成研究室

研究メモ、ゼミなどの教育活動、その他関心事など。

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Posted by Masanari Sakurai on

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『社会運動と若者』合評会報告(書評)

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『社会運動と若者』(ナカニシヤ出版)の合評会を、著者の富永京子先生をお招きして行いました。評者の高村学人先生、首都大の長谷川貴陽史先生が鋭いコメントを投げかけられ、さらに30人ほどお越し頂いたフロアからも、様々に興味深い質問やご意見があり、あっという間でした。当日は、私は、司会という名の、特等席で聞いていただけの役。時間も無かったのですが、こりゃ、何か言うより聞いていた方が面白いわ〜と思ってました。



同著はSEALDsに代表される、安保反対運動や、それ以外の社会運動にも参加した<若者>としての大学生・大学院生の語りを聞き取り、社会構築主義的にその「意味世界」を明らかにしようとした意欲作。サブカルチャーという概念を使いながら、若者たちが、<日常>とデモ(とその準備)という<出来事>を行き来する姿を分析しています(※1)。

ひとつこの本が面白いのは、若者たちのライフストーリーの聞き取りから、その「活動する若者」の姿が鮮やかに描かれるところ。そしてその姿はいくつかの類型に整理がされます。例えば、親が筋金入りの活動家だったような「箱入り社会派」。大学に入って皆デモに行かないことにびっくりした、という学生の語りがあります。また、学校や社会に疑問を感じながらも、ほとんど誰とも共有できてこなかった「孤独な反逆児」などもいます。こうした個人の来歴を紐解くことで、従来、マスコミや有識者といった<大人>がレッテルを貼ったり、あるいは自分たちの言説に都合よく利用してきた<若者>が、必ずしも実情そうではない、ということが曝かれていきます。

そうした学生達が共通して語るのは、「無関心」な同世代のこと。それこそが彼・彼女たちの<日常>の代表者達でもあり、最も身近な<政治>の対象でもあるからかと私は考えました。

このことで私が思い出すのは、自分の学生時代に行っていた選挙事務所でのボランティア活動。あの時、集まった仲間達と話していたことは、まさにここでの若者たちと同じ。どうすれば今の若者が政治に関心を持つようになるのか、でした。20年経っても変わらない。若者といっても、そんなに昔とは変わらない、と普段から思っていますが、ここでも感じました。

またこれは、フロアからの質問でもあった話ですが、<若者>たちは、<大人文化>を否定して、デモでHip Hopを流したりする(そしてそれは同世代へのメッセージでもある)のですが、他方で、驚くほど大人と同じような「決まり切った」演説しかしない。これはなぜか。それも、私の体験談も共通するのですが、若者は先入観を持たないから、(Hip Hopもそうですが)様々なことを、自分たちの運動に取り入れます。しかしそれは、裏返せば、「自分たちの言葉を持たない」存在でもある。だから大人の言葉を借りてしまう(借りざるを得ない)のです。まあそれが、SEALDsが年長者ウケする活動になった一つの要因でもある…という話が、これもフロアからありました。

今回に限りませんが、この研究、よく言われる(批判される)のは、「なぜ若者なのか」ということ。すなわち、安保反対デモには若者だけでなかった(むしろ年配者の方が多かった)のに、なぜか。あるいは、他の社会運動は対象にしないのか、など。まあ、ケース・スタディなのでそもそもが無理筋な意見ですが、私はそれでもこの本の研究は、一定の拡がり、応用可能性を持って議論ができる分析結果になっていると考えています。すなわち、背景として、近代における個人化を問題意識として持っていて、その元での社会運動のあり方、を分析している研究ですから、本研究結果は若者に留まらない、世代を超えた仮説的命題を提示していると思うのですよ。

ただしもちろん、本研究の限界というのはあって、それは一つには、「階層」Classの問題。日本の社会運動ではそもそも社会階層性は語られることは少ないのですが、本研究でもそれは分析の埒外に置かれています。しかし本書内の、そこここに見え隠れする「気になる点」はあって、例えば、彼らは、身近な同世代の理解が得られないことを嘆きつつも、学費問題や就職問題といった、学生にとって身近であるはずの「社会問題」についてはなぜか決して触れようとしないのです。その理由、一つには仮説として、階層的に高い学生達による活動であったためという可能性です。すなわち、そもそもが学歴的にも高く、また家庭も裕福な若者が多いので、学費や就職に困っておらず、そこに目が向かなかったという可能性です。もう一つは、あえて触れなかったという可能性もあります。なぜか。そこに触れてしまうと、若者内での階層性を露わにしてしまうので、「同世代の連帯」が崩れることを恐れた、のかも知れないという仮説です。結果として、若者の安保反対運動などは、高い階層の学生達中心であった可能性、あるいは、欧米での1%デモなどと違って、身近な問題への対応的な拡がりを欠いた可能性があります。

もう一つ個人的な感想(「この本がよい本なのは、読むと皆何かを語りたくなる」とは関学の山田先生のお言葉)。

本書からは、明らかに社会運動内において世代間、あるいは歴史的な断絶があることが明らかになっています。このことは日本の社会運動の「失敗」でもあるし、あるいは、(自分を含んだ)市民社会研究の「失敗」でもあります。日本では社会運動のプラクティカルな側面に注目した研究はほとんどありません。例えばそれは、欧米では、「コミュニティオーガナイジング」として実践の方法論が整理・蓄積されて、ある程度アカデミカルに議論をされています。しかし残念ながら、日本では、多少、社会福祉学でソーシャルアクションという議論はありますが、ほとんど蓄積がありません(コミュニティオーガナイジングに至っては、日本には別の意味合いを持って輸入されている始末)。

某先生がアメリカにてご研究されていた際、お子さんが通われていた小学校で、デモの仕方をおしえる授業の時間があったとか…。そこまでする必要もありませんが、しかし日本でデモへの理解が拡がらない理由も、プラクティカルな側面を軽視した結果というか、その辺、関係があるようにも思います。

個人化した社会における、市民社会、連帯、NPO、ボランティア、そして社会運動のあり方。いろいろと自分の研究の今後のネタも想起される、よい本、そしてよい合評会でした。

最後になりますが、うちの大学で企画をするとわりと来て頂ける、幅広いまちづくり関係者、NPO関係者がほぼいらっしゃらなかったのは、市民活動におけるある種の「断絶」を感じました。


※1 この分析の視角は、今まで本邦での社会運動の語られ方、分析のされ方が、「新しい社会運動論」に基づく理念が組織を規定するあり方だとか、「資源動員論」に基づく運動組織の分析が多かったのに対して、個人化、流動化する現代社会(の若者)の対しては、そうした枠組みでの社会運動分析は限界がある!というところから提起されている、というのも、社会学の専門的観点からは重要かつ興味深いところです。
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