考えるイヌ〜桜井政成研究室〜

研究メモ、ゼミなどの教育活動、その他関心事など。

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日本では地縁・血縁が衰退しているのか? ~高齢者扶助の歴史から考える~

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NHKがずっと特集している「無縁社会」。それに象徴されるのは、日本で地縁・血縁が衰退している姿だという。
本当にそうなのだろうか。日本ではかつて、地縁・血縁が「助け合い」機能を持っていたのだろうか?
ここでは高齢者の扶助を例に、その俗説への反論をしておきたい。

日本の高齢者扶助を巡る伝説として、「姨捨山」の説話はあまりにも有名である。地域によって様々なストーリーが存在しているが、その共通しているあらすじを、簡単に述べておこう。とある地域で、ある孝行者の若者が、老母と暮らしているところから話は始まる。そして、その地域の権力者が突然、高齢になった親は役に立たない存在であるとし、「姨捨山」に棄てるよう命を出すのである。若者は初めは抵抗するが、母親自らが若者を説得し、仕方なく、老母を背負って山に棄てに行く。しかし、帰り道の目印に木の枝を置いてきたという老母の気遣いに、若者は心を打たれ、老母を連れて帰ってしまうのである。その後、若者が老母をかくまっていることが発覚してしまうのであるが、同時に、以前に権力者の危機を救った知恵がその老母のものであることも明らかとなり、老人こそは宝であると権力者は気づき、「姨捨」命令を取り下げるというものである。

さて物語はハッピーエンドであるが、こうした「棄老」という悲惨な現象はわが国の歴史上、実際にあったことのようだ。それは主に明治以前の、飢饉といった食糧難の時期に日本全国で行われていたようで、伝説は全国で100カ所以上に残っている。長野県更埴市の姨捨山は平安時代から歌に詠まれ、「大和物語」には姨捨伝説の地として登場している。

しかしながらその姨捨伝説のなかでも、江戸時代以降の伝説の幾つかについては、高齢者が一軒家に集住し、互いに助け合いながら生活し、そして死を迎えたという。すなわち、今でいう「セルフヘルプグループ活動」「コーポラティブハウス」がすでに近世のムラ社会には存在していた可能性が高いのである。例えば柳田国男の「遠野物語」には、「デンデラ野」という地域で、高齢者相互扶助システムが行われていた伝説が掲載されている。
 
「…山口、飯豊、附馬牛の字荒川東善寺および火渡、青笹の字中沢ならびに土淵村の字土淵に、ともにダンノハナといふ地名あり。その近傍にこれと相対して必ず蓮台野(デンデラの)といふ地名あり。昔は六十を超えたる老人はすべてこのデンデラ野へ追ひやるの習ひありき。老人はいたづらに死んでしまふこともならぬゆゑに、日中は里へ下り農作して口を糊したり。そのために今も山口土淵辺にては朝に野らに出づるをハカダチといひ、夕方野らより帰ることをハカアガリといふといへり。」(柳田, 1994(改版); pp.60-61)


 現在でも、岩手県遠野市の東部に、土淵という地名がある。そして、デンデラ野の跡地も存在している。知っての通り、遠野物語とは、民俗学者の柳田国男が村人・佐々木喜善から直接聞いた話を元にしたものであるが、その佐々木喜善の生家の南側がデンデラ野であったという。その地で、老人たちは助け合いながら暮らし、働けるものは麦や大豆の畑を自分たちで耕したり、里へ出て若者の田畑を手伝うことで幾ばくかの食い扶持を分けてもらい、それを持ち帰り、働けぬ者とも分配しながら、生活をしていたという。

姨捨伝説の真実は、必ずしも人間味のない棄老であったわけではない。
また、地縁や血縁が高齢者扶助に機能していたなどというノスタルジックな面影もない。
そこには、貧しい中でただ座して死を待つのではなく、何とか助け合って暮らしていくための、相互扶助組織が存在していたのである。

また、同じく民俗学者の宮本常一が調べたところによれば、高齢者の集まりが村々に存在していて、それが家族を越えた助け合いをしていたという。
農地解放の頃、というから、第二次世界大戦後すぐのことであろう。彼によれば、長野県の諏訪湖のほとりの村では、60歳をこえると「年より仲間」に入ることになっていた。そして、その「年より仲間」は時々集まり、村の中にある、いろいろの隠されている問題を話し合っていたという。

「…かくされている問題によいものはない。それぞれの家の恥になるようなことばかりである。そういうことのみが話される。しかしそれは年より仲間以外にはしゃべらない。年寄りがそういう話をしあっていることさえ誰も知らぬ。」(宮本, 1984; pp.37)


 そうした集まりでは、高齢者同士の「知恵の交換」がなされる。それは生きていくためのノウハウともいうべきもので、嫁姑関係、夫婦の問題、訴訟、など、他人には言えない問題を解決するための話がなされる。その頃は農地解放で、地主と小作の紛争が絶えない時期であったが、農地解放の指導をしている者が、その「年より仲間」で「正しいことは勇気を持ってやりなさい」と言われ、解決の道筋をつけたという話がされている。

また、問題解決行わないまでも、単に「ぐち」を言い合うだけの、高齢者の寄り合いも、かつての地域ではみられたようである。宮本が、福井県敦賀の西にある半島の西海岸を歩いていたとき、小さなお堂に老女が10人ほど集まって、飲食しているのに出会った。聞けばそれは観音講のおこもりといい、60歳になるとこの仲間に入り、定期的におこもりをしたり、民家に集まって飲食をともにして話し合うのだという。

「…観音講のことについて根ほり葉ほりきいていくと、『つまり嫁の悪口を言う講よの』と一人がまぜかえすようにいった。しかしすぐそれを訂正するように別の一人が、年よりは愚痴の多いもので、つい嫁の悪口がいいたくなる。そこでこうした所で話し合うのだが、そうすれば面と向って嫁に辛くあたらなくてもすむという。」(宮本, 1984; pp.43)


このような集まりは、現在でも、サロンやコミュニティカフェといった形で、各地で開催されている。しかし、この事例の特徴的なことは、グループの存続のための、幾つかルールが存在していたことである。

「…ところがその悪口をみんなが村中へまき散らしたらたまったもんではないかときくと、そういうことはせん。わしらも嫁であったときがあるが、姑が自分の悪口をいったのを他人から告げ口されたことはないという。つまりこの講は年よりだけの泣きごとの講だというのである。」(宮本, 1984; pp.43)


これは「守秘義務の原則」である。すなわち、単なる楽しみのサロン活動だけではなく、一種のグループ・ワークとして、その場が機能していたことが伺われる。現代風にいえば、この場で高齢者同士がピア・カウンセリングをし、エンパワーメントされて、各家々に戻っていったのであろう。

このような高齢者世代の組織だけでなく、さまざまな年齢別の相互扶助組織が、日本のかつての村落社会では発展していたことが、民俗学の諸成果から明らかとなっている。地縁・血縁的な結合が強かったと思われる近代だが、実際に助け合い機能を持った装置は、アソシエーションともいうべき、このような自助(互助)組織なのだ。

まとめると、かつての日本には(にも)地縁・血縁の助け合いなど、ほとんど存在していなかった。あったのは今と同じく、NPO・ボランティアグループ、互助組織といった集団的な「生存戦略」なのである。こうした歴史的経緯から現在の「無縁社会」を乗り切る方策を考える意義は大いにあるだろう。


(参考文献)
柳田国男(1987)『遠野物語(改版)』角川書店。
宮本常一(1984)『忘れられた日本人』岩波文庫。


遠野物語―付・遠野物語拾遺 (角川ソフィア文庫)遠野物語―付・遠野物語拾遺 (角川ソフィア文庫)
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柳田 国男

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忘れられた日本人 (岩波文庫)忘れられた日本人 (岩波文庫)
(1984/05/16)
宮本 常一

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(なお別の観点として、昔は地域や家庭で教育やしつけがなされてなかった、という話はこちらの本が大変参考になります。)

日本人のしつけは衰退したか (講談社現代新書 (1448))日本人のしつけは衰退したか (講談社現代新書 (1448))
(1999/04/15)
広田 照幸

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