考えるイヌ〜桜井政成研究室〜

研究メモ、ゼミなどの教育活動、その他関心事など。

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宅老所実践にみる人称的連帯/非人称的連帯の架橋可能性

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第14回全国宅老所・グループホーム研究交流フォーラムinえひめに参加した。
これまで興味があったけどなかなか参加できなかったこの会。期待通り、刺激が大きかった。



宅老所とは?宅老所・グループホーム全国連絡会ウェブサイトより

 民家などを活用し、家庭的な雰囲気のなかで、一人ひとりの生活リズムに合わせた柔軟なケアを行っている小規模な事業所を指す。

 通い(デイサービス)のみを提供しているところから、泊まり(ショートステイ)や自宅への支援(ホームヘルプ)、住まい(グループホーム)、配食などの提供まで行っているところもあり、サービス形態はさまざまだ。また利用者も、高齢者のみと限っているところがある一方で、障害者や子どもなど、支援の必要な人すべてを受け入れるところもある。介護保険法や自立支援法の指定事業所になっているところもあれば、利用者からの利用料だけで運営しているところ、あるいは両者を組み合わせて運営しているところもある。

 1980年代半ばから全国各地で始まった草の根の取り組み。大規模施設では落ち着けない、あるいは施設では受け入れてもらえない認知症高齢者に、少しでも安心して過ごしてもらいたいと願う介護経験者や元介護職員・看護職員などによって始まった。

 宅老所の多くは民家などを活用し、通い(デイサービス)の形態から出発している。大規模施設では問題行動のある困った利用者という烙印が押された方も、宅老所ではお茶を飲んだり談笑したりと、落ち着いて過ごされる姿が見られる。1998年の全国調査(宮城県実施)では、600か所の宅老所があると報告されているが、宅老所の定義が不明瞭であるため現在の実数は定かではない。

 1998年2月には、宮城県松島町で第1回目の「全国宅老所・グループホーム研究交流フォーラム」が開催され、それを機に1999年1月には、宅老所の実践者やそれを支援する仲間がつながって「宅老所・グループホーム全国ネットワーク」が発足した。家庭的で、一人ひとりの生活リズムに合わせた柔軟な宅老所のケアは、「逆デイサービス」や「ユニットケア」「地域共生ケア」「小規模多機能ケア」などの実践を生み出すなど、日本の介護や福祉のあり方に一石を投じた。




登壇した実践者の方々の話で、家族との関係をどうするか、という話題が出た。
ある宅老所代表者は、家族の負担は出来るだけ軽減したい。そのために家族とはこまめに連絡を取り、いつでも頼りにしてもらえる関係を構築している、と話された。
またある宅老所の代表者は、依存されるのはちがう気がする。我々もできるだけのことをしますから、家族でしかできない部分(精神的な支えとして)はお願いする、と話された。

どちらのケースも、スタンスが異なるようだが、実は共通したポリシーがあるように思う。
それはケアの専門職として、家族の支援も行わなければならない、あるいは家族との協働で介護は行うという思想だ。

宅老所は、家族や他の施設が面倒をみきれなかった「困難」な高齢者を受け入れることが多い。
そうした高齢者に対して、宅老所の実践が有効であればあるほど家族は高齢者を見放す(宅老所に過度に依存する)ことがある。あるいは家族が宅老所のケア方針とは相容れず、「対立関係」になってしまうことがある。

ケアを巡る言説世界においても、家族によるインフォーマルなケアと、専門家によるフォーマルなケアは対立的に考えられてきたように思う。

イリイチが『脱学校の社会』や『脱病院化社会』などの一連の著作で批判を展開したように、専門家によるケアは本人の尊厳や自律性を失う方向になりがちだ。
イグナティエフも『ニーズ・オブ・ストレンジャ-ズ』で次のように述べている。

わたしの住まいの戸口の見知らぬ人びとは、たしかに福祉を受ける権利を有している。しかし、こうした権利を管轄する役人からはたしてかれらが相応の尊敬と思いやりを受けているかどうかは、まったく別問題なのだ(Ignatieff 1984=1999: 21)。


ただ、介護保険発足前夜、高まる高齢化率のさなか、家族、特に女性がケアギバーとして犠牲を強いられてきた。
そのようなことは解消せねばならぬという名目の元、盛んに叫ばれたのは「介護の社会化」であった。
ここでの社会化とは後述する「人称的連帯」を「非人称的連帯」に代替するという発想が強かったのではないか。施設や専門的介護職員の増加で、家族介護は解消するという「幻想」が確かに当時は存在していた。

介護保険で、確かに施設も介護サービス機関も増えた。しかし、在宅介護では家族の負担は減ってはいない。老老介護の増加でそれはさらに顕著になってきているとも言える。介護心中などは、象徴的な事件である。
そこから逃れる手段は特別養護老人ホームに「預けて」しまう。結果、家族は断絶。これでは介護保険前と何も変わっていないのではないか。

宅老所実践が興味深いのは、こうした「施設か在宅か」といったどちらを選んでも不満足の残る二者択一に、被介護者を巡る「関係性の修復」(三好,1997)という視点から、架橋を可能にした点にあるといえる。

齋藤(2004)によれば、人びとの助け合い=連帯は次の二種類に区分できるという。
ひとつは、人称的な連帯である。これは、特定の人びとの間にネットワークとして形成されるものとしており、つまり「顔の見える関係」での助け合いだ。ただ、人称的連帯は制度化されていないがゆえに、生の保障としては不安定であり、加えて誰が支援し、その支援を誰が受けているのか見えやすい難点がある。また、それが可能にする生の保障は社会の全域には及ばないとする。

これに対して、非人称の連帯がある。これは、いわゆる社会保障のことである。
社会の全域に渡り、「媒介されているという性質」をもっているがゆえに、生の保障を得るために特定の誰かに直接依存せざるをえないという状況を克服しうる。それは強制的であるため、安定的であるという。しかしながら、「誰かを助けている」視点がないがゆえに、「誰かのために負担を強いられている」という視点が強まることで、そのシステムへの不満が高まるとされている。現在の年金制度が典型的だ。

人称的連帯は精神面での充足をもたらす。とはいえ、親族等のインフォーマルケアは限界がある。ケアを非人称的連帯で維持しつつ、人称的連帯もフォローするにはどうしたらいいのか。
宅老所実践はまさにその解の方向性を提示しているのではないか。

インフォーマルなケア(NPOなども含めて)に期待するむきは思想信条(保守・革新)問わずあるが、それはあまりにも現実を知らず無邪気すぎる。
しかし在宅の介護負担の解消に、もっと特養をつくるというのは、おかしいのでは。財源的にも、もう持たない。
その解決策はハードの話ではなく、優れた現場実践にこそある。
ケアというものが矮小化された「お世話」のレベルにとどまっている限り、あるいは専門性を「お客様」「患者様」などと「顧客化」する方向で考える限り、現在の高齢者介護を取り巻く問題の解決にはつながらない。
今後考えていくべきはケアの専門性の「中身」であり、それ自体が問われているのではないだろうか。


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