考えるイヌ〜桜井政成研究室〜

研究メモ、ゼミなどの教育活動、その他関心事など。

スポンサーサイト

Posted by sakunary on

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

リスク論から考える除染の問題(修正版)

Posted by sakunary on   0 comments   0 trackback

※修正しました(2015年1月4日)


知識というものが、意識的に経験することを意味するとすれば、結局、危険については誰も知らないのである。
(U・ベック『危険社会』p.115)




除染について、次のような意見が存在しています。
放射能汚染について、住民達が除染を望んでいるのだからするのだ。除染ボランティアもそれを支援するのに、どこに問題があるのかという意見。
また同様なものとして、除染は住民の選択。ボランティアでするのも自己決定ではないか。というのも散見されます。

これらに対して、私は、リスク論、あるいは、リスクコミュニケーション論の見地から、認識を異にしています。


「リスク社会」で有名なベックは、高度な科学技術がもたらすリスクをどう認識するかについて、次のように述べています。

「…大衆による反対、不安、抵抗は純粋に情報の問題なのである。技術者の知識と考えを理解さえすれば、人々は落ち着くはずである。もしそうでないとしたら、人々は救いようもなく非合理的な存在である。」
「しかしこの見方は間違っている。…危険について述べる場合には、われわれはこう生きたい、という観点が入ってくるのである。…ここで国民に向けられていた非難の矢は向きを変える。国民が科学者の危険の定義を受け入れないからと言って、国民の「非合理性」を非難できないのである。…科学者たちは自分たちが受け入れた文化的前提の中に隠れている概念を経験的非難に曝されないようにする。…しかし、その国民の考え方にこそ、専門家は耳を傾け、自らの研究の基礎にしなくてはならないはずである。」

ベック『危険社会』pp.89-90



「そんなに恐れてもストレスが溜まるだけ」
「正しく恐れよう」
などという科学者達。
それに納得できない市民。

30年以上の前の本にもかかわらず、まさに今回の東電公害事件のことを言っているのではないかと、驚きます。
こうしたリスクと科学技術を巡る、政治的社会的な言説の形成についてのベックの考え方を、three million cheersさんがご自身のブログに端的にまとめて下さっているので、引用します。

「…リスクを見定めるには科学技術が必要であるのに、科学技術の専門家の間で意見の不一致が生じているため、リスクは確固たる基盤を基に判定されるのではなく、各視点の議論・闘争の結果として扱いが定められることになる。つまり政治化される。リスクがどの程度まで許容されるのか、それに対してどのような対処が必要なのか、それはこの政治的コミュニケーションのなかで揺れ動く。また現代産業社会は、このように常に派生しているリスクを経済的に利用することすらおこなう。リスクが利益を産出する手段として使われるようにすらなり、リスクは延命・あるいは増長されることにさえなる。」
ウルリヒ・ベック “危険社会”/three million cheers.



ベックは、放射性物質の暫定基準値のような「許容値」も、政治的な産物であることを喝破しています。

「…なるほど許容値によっては最悪の事態は避けられるかもしれない。しかし、これは自然と人間を少しなら汚染してもいい、という「お墨付き」ともなる。「少し」がどのくらいかが問題なのである。」(p.101)
「…いったん「汚染の許容」というすべりやすい斜面に足を踏み入れてしまうと、汚染がどの程度まで許されるかという問題が重要になる。」(p.103)
「…「許容値規定」の根底にあるのは、技術官僚の下した非常にうさんくさい危険な誤った推論である。すなわち、(まだ)把握されていないもの、あるいは把握不可能なものは毒性がない、という推論である。また別の言い方をすれば、疑わしき罰せずで、毒性の有無がわからない場合には、毒の方をして人間の危険な手から守ってやってくれ、ということである。」(p.104)



放射性物質の暫定基準値が「まやかし」であることがここで論破されています。

こうした「リスクが政治化」された状態に対応すべく、登場してきたのが、「リスク・コミュニケーション論」です。

リスクコミュニケーション論では、単に「客観的な」情報を「精確に」与えさえすれば、つまり、唯一の正しい「正解」を当事者間で精確に「共有」されるならば、双方が正しい理解に達するはずであり、コンフリクトは起こり得ない、という考え方とは袂を分かっている。環境問題解決の「正解」を、時々のコンテキストに依存した社会的合意にゆだねるという見地に立つ。

(小松丈晃『リスク論のルーマン』2003年、p.97)



ですから、今回の放射能汚染問題を巡る政治的言説においても、くりかえし、「正しい情報を市民に理解してもらうことが第一」というようなことが言われますが、これは政府がリスクコミュニケーションを国民と適切にとろうとしていないと考えられます。それは権力側の言い分であって、被ばくした(あるいはさせられようとしている)国民の側の言い分を何も訊いていないからです。

そしてこのリスクコミュニケーション論の観点からは、除染の問題点については、次のように言えるのではないでしょうか。
まず、住民が除染を選択せざるを得ない背景には、住民の意思が排除されていることがあります。
上記の、小松丈晃氏は、このような問題をご自身のブログで次のように指摘しています。

ルーマンのいう「部外者Betroffene」の中でも、比較的大きな被害を被りやすくしたがってみずからが被る「危険」を可視化しその経験を政治的コミュニケーションの俎上に積極的にのせてしかるべき人々は、通常、「排除領域」に集中しています。これは、主としてアメリカの環境社会学の中で、「環境的公正」というタイトルのもとで考察されてきた事態です(居住地区の人種的偏りと環境被害の偏りとが一致する)。ベックが例の『危険社会』(1986)の中で「リスクに満ちた工業部門は周辺の貧しい諸国に疎開している」と指摘しているのも(Beck 1986:54=1998:61)、同様の脈絡に属するものです。言い換えると、もっともエンパワーメントの必要な人ほど、排除される=聞かれる権利が奪われる、ということです。
http://socio-logic.jp/lforum20000817b.php




被ばく地に住みながら、「低線量被ばくのリスク」を「厳しく評価」する市民にとっては、選択肢が十分に用意されていません。高濃度の線量地域に住みながらも、経済的理由から避難したくてもできない人達が数多くいらっしゃいます。
また、住民がその地域に住み続けたい理由として、近隣コミュニティやその他地域のアソシエーションへの所属から得る便益があります。とりわけ情緒の安定などの、リン(2001)の言う、表出的価値を生み出すソーシャルキャピタルです。それから切り離されるリスクに対しても、補償する仕組みが十分にあるわけではありません。

しかし、住民の人達は、それらのリスク対応の「合意できるあり方」を政治的にコミュニケーションする手段や場を持ちえません。

結果として住み続けるしかない住民にとっては、政府が唯一提示した「除染」というカードしか選ぶ権利が無く、隘路に陥ってしまう構造になっているのではないでしょうか。あたかも個人的選択であるかのように見せられていますが、こうしたリスクコミュニケーションの不在による帰結であることを 認識すべきでしょう。

前回のエントリでも言及したふくしま会議での「熟議」が、本来ならば政治的意思決定者をも巻き込んで行われるべきなのですが、残念ながら、そうはなっておりません。
(また、私がustreem配信で拝見したふくしま会議での細野大臣は、学生からの真剣な問いかけにも議論を避け、演説の際には自身の阪神大震災時のボランティア体験の思い出話、そして後は除染の話に終始しており、とても「リスクコミュニケーション」をとろうという姿勢は見られませんでした。)

また、ルーマンはリスクについて、「非知」という用語を用いたうえで、「特定化されない非知」と「特定化された非知」という区別しています。このことを小松(2003)がリスク対応の観点から解説をしています。

「…科学的営為の中では、どこがわからず解明すべき点であるのかということの特定化、つまり「重要な(relevant)非知の特定化」こそが、科学システムの分出を支える、とする。首尾よく非知が特定化されるときにのみ、科学的活動と呼べるオペレーションが可能になる。このような意味での非知がみられる場合には、何が解明されるべき問題であるのかが特定されているので、その点(特定化される非知)がわかれば安全への道を示すことができるという考え方を導くことになり、安全策をとるための決定が誘発される。」
「…だが、…「危険」を被る被影響者の立場から表明される非知は、どちらかといえば「特定化されない非知」としての性格を有している。…(中略)…要するに、どこが不明であるのかすら不明であるという事態である。ルーマンの言葉でいえば、「カタストロフィの閾」を越えてしまったところに形成される非知である。ルーマンは、ある種の決定に関与できない被影響者を、数量的なリスク計算によって説得させることができなくなるとき、そこにカタストロフィが成立すると述べている。」

(小松, 2003: pp.73-74)



「ある種の決定に関与できない被影響者を、数量的なリスク計算によって説得させることができなくなるとき」というのは、まさに現在の東電放射能汚染公害事件を巡る、被ばく地での状況を指しているといってもあながち間違いではないでしょう。こう想定したとき、自主避難というのは、こうした「特定化されない非知」からのカタストロフィ的行為、あるいは、除染へと矮小化された非知の特定化への、被影響者からの「異議申し立て」であると理解することができます。この様な状況下では、ルーマンも小松(2003)も注目したように、抗議運動がどのように組織化され、展開されるのかが、重要となってくるのではないかと思われます。
スポンサーサイト

Post comment

管理者にだけ表示を許可する

Trackback

trackbackURL:http://sakunary.blog134.fc2.com/tb.php/88-72ef8074
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。