考えるイヌ〜桜井政成研究室〜

研究メモ、ゼミなどの教育活動、その他関心事など。

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住民やボランティアによる除染:支援のあり方について

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この数ヶ月、様々な人とネットで、あるいは現地で、町内会や自治会やPTAで行う除染についての意見交換をしました。それについてなかなか自分の中で整理できずにいました。いろいろな方から状況等をお伺いしましたが、とにかく住民除染は、状況が非常に複雑ですね。ちょっとまとまりないかもしれませんが、住民やボランティアによる除染活動を支援している関係者の方々に念頭に置いて頂けたらうれしいな、ということを書かせていただきたいと思います。

なお、住民・ボランティア除染についての、ツイッターでのこれまでの議論の経緯は、以下のツイッターまとめサイトをご参照下さい。

「猪飼論文への反論」

「除染政策批判をつぶやいてたらそれどころじゃない話が」

「郡山取材で聞いた話の裏付けと検証」

「住民除染を進めるとかえって専門的な除染の必要性が増す?」





住民除染は住民が望んでいることなのか

まず、住民除染を行うことは、住民が自ら望んでいることなのか、ということについて述べたいと思います。なお、ここでの「住民除染」とは、町内会や自治会やPTA等で行われる住民が中心となって集団で行う除染活動のことを指します(以下同じ)。

住民除染は住民が望んでいることなんだから、行政やボランティアなどは積極的に除染支援をするべきであるという議論があります。これに対し私は、ツイッターまとめサイト「住民除染を進めるとかえって専門的な除染の必要性が増す?」において、住民間で除染の効果やコストの認識に差がある現状では、積極的に除染を推進することは難しいだろう、ということを述べました。つまり行動経済学的に考えるのならば、住民にとって、あえて被ばくリスクを負って、また自ら労力をかけて、除染活動に参加するためには、そのコストに見合ったベネフィットが必要です。しかしそのコスト(除染の負担感)とベネフィット(除染の効果)の認識には、人によりばらつきが大きいのです。せいぜい、「できるだけ少ない方がまし」ぐらいの合意しか住民間ではとれず、それで参加する人がどれだけるのだろう?と疑問を呈しました。

これについて、「『できるだけ少ないほうがまし』程度の意識でも積極的に除染活動に参加する理由になる、という話を、ツイッターのまとめサイトのコメント欄で @sevenedges さんがご説明して下さいました。(「住民除染を進めるとかえって専門的な除染の必要性が増す?」コメント欄参照)

残念なことですが、福島県で子供を育てている親に対して、それだけで親失格の烙印を押そうとする人たちがいます。それが赤の他人ならまだしも、友人や親族の声として届いたときのストレスを想像してみてください。

福島県を離れた人たちを悪く言うつもりは全くありません。残っている人の大半が同じ想いでしょう。しかし残った親はその選択が本当に正しかったのか、残り続けるがゆえに、子供のことを真剣に考えるがゆえに、何度も何度も自問し続けなければいけません。県外の人からの声は、そんな親たちにずっと鞭を打ち続けているのです。

ですから、親が「自分は子供たちのことを真剣に考えている」という赦しをあらゆるところに求めるのは、至極自然なことなのです。 例え科学的には除染などしなくても全く問題ないと結論づけている人であっても、その活動に積極的に関与する十分な理由がここにあります。



福島(それ以外の線量高い地域でも)に残ることを選択した親は、避難した親と同様、子どもに対して申し訳ないという「罪の意識」を抱えています。そうした贖罪のために除染を行う親も多く、だから、線量はそれほど下がらなくてもそれは大した問題ではなく、「少しでも下がれば」という意識、とのことでした。

ですから、汚染度が低くても除染してほしいという、低汚染地域(私はそうは思いませんが)の住民の要望は、単により安全を求めるというエゴ的なものであると言うよりも、誰かのためを思っての貴い意識であることを可能性として念頭に置いた方がよいでしょう。


住民間での合意の難しさ:リスクとベネフィットの認識

他方で、除染活動への参加を望んでいない人もいるのも事実です。そうした人達は参加しなければいい、とも言えるのですが、しかし、除染に参加しない住民に対して、他の住民は複雑な感情を抱きます。町内会の清掃活動に参加しないお宅への視線と同じと考えて頂いたら良いと思います。

実際には除染に関する考え方、どれだけの効果を求めるかは住民によって様々です。人によっては具体的な目標値(例えば年間+1mSvなど)を持っている場合もありますし、人によっては汚染物質が飛散して内部被曝の危険が高まるので、高圧洗浄そのものをすべきではないという人もいます。(※もちろん飛散しますが粒子のサイズを考えれば極めて一時的なものと考えるのが妥当、と私は認識していますが…)
(ツイッターまとめサイト「住民除染を進めるとかえって専門的な除染の必要性が増す?」でのコメント欄 @sevenedges さんのご意見)



このためか、「福島県が市町村を通じて自治会などに助成金を出す線量低減化活動支援事業の活用も、支援事業の補助申請が見込まれている自治会などのうち、昨年12月27日までに申請したのは福島市で3分の1程度の約340にすぎず、南相馬市でも半分に達していなかった」(河北新報1月4日記事)とのことです。

これに対して可能な打開策は、まず、「リスクが低い人」に限定して作業を依頼することがあげられます。例えば40歳以上の男性に限定したり、一定の講習を受けた人だけ行うなどです。

あるいは危険な作業をしないという選択も考えられます。ここでの「危険な作業」とは、線量の高い場所という意味だけでなく、同時に一般的な、物理的に危険な箇所(屋根の上など)での作業という意味を含みます。
後者で言えば実際、南相馬の人が、次のようにツイッターで教えて下さいました。

屋根から落ちてますよ。知っているだけで2人・・・他にも重傷じゃないにしても除染中に流血は数件ありました・・・それからもう半年たちますが、まだ政府からは除染について何も言ってこないですよ
( @haru_ty さん)



こうした安全への配慮が必要な上、そして前者の、線量の高い箇所も、住民による除染は(これ以上の被ばくを避けるために)行うべきではないでしょう。実際に現在、地域によっては行っていないそうです。これもツイッターでのやりとりですが、

郡山の場合だと、実施する団体というか場所によって作業内容は少しずつ違いがあるみたいです。後で実施した団体さんでは危ないところには手をつけないでおく、また低減が見込めない作業にもあまり力を入れないなど先行事例を生かした活動になっているとの話をききました。( @surumeno13 さん)

もちろん目標に極端な無理があってはいけません。出来る限り実現のメドが立つところを目指しましょう。次回への課題もいいですが、あまり何度も繰り返されると疲弊してしまいます。無理そうだったらあきらめましょう。 何にしても、出来ることを出来る範囲でやる、という姿勢が大事です。その意味で、出来ないことは行政に任せるなり、あるいはあきらめるなりすることです。
(ツイッターまとめサイト「住民除染を進めるとかえって専門的な除染の必要性が増す?」でのコメント欄 @sevenedges さんのご意見)



とのご報告や、お考えについてお聞かせ頂きました。

しかしここで矛盾が生まれます。危険な場所=線量が高い場所(より被ばくする)だったりするので、住民除染自体に意味が無くなるのです。この問題については後で改めて述べます。

除染に関して住民間で合意が難しい問題のもうひとつの点として、除染ごみの仮置き場の問題もそれが原因で除染が進んでいない現状あるようです。

先ほどの補助金でも、町内会での仮置き場設置も、町内会が決めることになっており、それがまた住民間のいざこざの元にもなりかねないとの話でした。先述の河北新報の記事でも、「…市街地は支援事業の活用が難しく、市中心部の自治会の会長(70)は「隣同士の自治会で連携して 仮置き場を設置しようとしても、少しでも反対意見があったら無理だ」と嘆く。 」とありました。

南相馬でも、仮置き場の場所の合意が取れず、大規模な私有地の除染がなかなか進んでいないとのことです。(2012/02/12立命館大学でのシンポジウム「地域分散型 被災者支援を考える」での南相馬市副市長 村田氏の発言より)

こうした問題は、当事者同士で解決することが難しい。住民間の除染に対する意識や、目的等への合意を、専門家が入って整理することも、外部団体の一つの役割として期待されていると感じます。

このように、郡山など住民除染が推進されている地域では、除染への労力としてのボランティアというよりも、安全指導や合意形成支援が出来る専門家ボランティアが現地では必要とされているように感じました。実際、「作業する共同体の外部の専門家の方がその場に来てアドバイスや確認をしてくれるのであれば、リスクが多い人が不参加になることの気まずさや作業にあたる人の不安は減りそうです。」という意見も頂きました。(ツイッターまとめサイト「住民除染を進めるとかえって専門的な除染の必要性が増す?」でのコメント欄 @surumeno13 さんのご意見)

また、こうした状況を鑑みますと、ボランティアが主役で線量を下げる活動が、どれだけ住民にとっての「満足度」向上に寄与するのかは、慎重に住民サイドとやりとりする必要があるのではないでしょうか。「ボランティアが来て勝手に何かしている」という状態は避けなければなりません。

これに関連し、AERA 2012/1/30号にて除染ボランティアの記事がありましたが、そこでは、次のようなことが書かれていました。

除染ボランティアの声「地元の人の顔が見えないんです。石巻では、被災した人と…共同作業の中で、被災地の体験を直に聞くことができた。…今回であった地元の人は、挨拶に立った自治会の会長さんひとり。それも形式的。」

住民の声「ボランティアの方には本当に頭が下がる思いですが、一方で除染されると、 もう「避難」という選択肢がないのかと途方に暮れます。」

http://t.co/bOGF9j64



こうした「すれ違い」が起きないようにするにはどうしたらいいのか。まさに、ボランティアコーディネート上の課題だと思います。

もちろん被ばくをできるだけ避けるための防護を完全に行うことは大前提です。しかし、それ以外にも、除染は果たして「誰のための」「何を成果とする」活動なのか、という目標設定やボランティアのモチベーションづくりが問われているかと思います。


住民除染の意義と可能性

さて、先ほど、線量の高いところはしない、ということであれば、そもそも住民が除染を行う意義が問われることになると述べました。また、ここまでに住民除染の「成果」や「目標」という言葉を使ってきていますが、住民除染の成果や目標の設定は、現実的には非常に複雑で困難な作業となります。

「で、それだけ汚染度が低かったら、どうして除染活動しているの?というところが、複雑で神経を使うとても難しい問題なんです。私と同じような立場にいて同じように考えていらっしゃる方は少なくないはず…」

(ツイッターまとめサイト「郡山取材で聞いた話の裏付けと検証」での @sevenedges さんのコメント)



これについては、私はその「意義」を、次の三つに整理しています。

第一に、すでに上で書いていることですが、住民の精神的な安定のためと考えます。罪の多い親も多い、という話でした。そうした人でなくても、除染活動でほんの少しでも線量が下がれば、という「安心感」を得る意味合いは大きいと思います。

しかしながら、

私は郡山市の中でも比較的空間線量の低いところに住んでいます。「科学的には除染などしなくても全く問題ない」という立場が少数派とは言えないほどには低いです。 ですので除染活動を問題にするとき、「線量がどれだけ低下するか」という指標を脇に置いて、「参加者がどれだけ満足できるか」という指標を重視する姿勢がとりやすいということはあります。その両方を重視しなければいけない地域では、私が言うほどには問題は簡単ではないのだろうな、と思っています。
(ツイッターまとめサイト「住民除染を進めるとかえって専門的な除染の必要性が増す?」でのコメント欄 @sevenedges さんのご意見)



ご指摘頂いているとおり、「精神的な満足」のためだけでは、線量の高い地域は済まないでしょう。ではその他にどんな意義があるか、ですが、第二に、住民が自分たちの地域の「危険箇所」を自分たちで認識できることです。

これも上で引用した @surumeno13 さんが教えてくれたことですが、「除染後も定期的に測定し、町内線量マップを回覧板で回しているご町内もありました。除染後にも 水が流れ込み線量があがってしまう、この場所は高いなどの情報が共有されることで、その後のその地域での生活にも役立ちそうです。たとえば、そのあたりで子どもたちを遊ばせないとか。」とのことで、すでに現地では除染の成果(たとえそれが線量を十分に下げるものになっていないにしても)を活かす活動が始まっているようです。

またこうして住民同士、あるいは他の地域の人達と情報交換をするのは、どこも未だかつて経験のないことですから、よりよい取り組み方を探る意味でも重要かと思いました。

しかしこうした情報交換は、ボランティアだけで除染した場合、住民達との関わりがなければ、得られない成果だと思います。
このあたり、関係者の皆様方にどこか頭の隅において頂けたらありがたいです。

住民除染の第三の意義は、住民(やボランティア)が除染を行うことには限界があるのですが、それを公に示すことによって、逆説的ですが、専門家による除染の必要性や、除染自体の無意味さを訴える素材となる、と考えています。住民やボランティアによる除染の効率の悪さを示すことで、問題解決の仕方として間違っていることを政策提言できる格好の材料となると考えています。

そこまで行かなくても、除染の方法と成果を考えていくための議論を提起することは、支援関係者(とりわけボランティアコーディネーター)には求められていると思います。

今回の除染ボランティアの件では、行政の差配にそのままのっかってしまっている構図が(地域によっては)あることを、私は少し危惧していました。

ボランティア活動は、どのような形であるにせよ、行政との緊張的な距離感が必要ではないかと思っています。自治の原則として、住民が先にあるわけですから、行政が指示し、ボランティアがそれに従うというのは、場合によりけりではありますが、好ましくない場合も多いと思っています。特に今回の除染活動のようなセンシティブなケースでは、一度考えるべき点なのではないでしょうか。


支援者に求められる役割とは

ただし、ここでいう「緊張感」とは、ただ単に対立的な関係性を行政との間で持つ、ということではありません。

私が放射能問題や復興関連の課題解決で痛感しているのは、市民と行政の間をうまく「つなぐ」存在がいるかどうかで、かなり展開が異なっていることです。片手で殴り合っても、もう片手はつないでおかないといけません。必要なのは「対話」だと思っています。

このことについて、せんだい・みやぎNPOセンターの理事長だった故・加藤哲夫氏は、著書の中で次のように述べています。

そもそも、役所の問題設定に悪意はないのかもしれませんが、結論を市民に押しつけるような方法は、無理がありますし、役所のことばはたいてい人々の生活のことばから外れていて伝わらないし、議論もできないようになっています。それを通じることばに変えていくような場づくりが必要になってきているのでしょう。地域に何か問題があったとして、それを行政にお願いするかたちで解決するという時代は終わったのです。たとえば行政と市民の議論の仕方について考えてみましょう。一方の側に一列に住民が並んで座り、反対側に行政側が座って話し合いをするとした場合、どうなるでしょう。たいていの場合は、相手に向かって一方的に何かを述べたり、住民の側が要望を出しても、それに対してお役所のことばで、つまり生きていないことばで公式的な見解を返したりすることに終始するのではないでしょうか。もしそれを、対面のかたちではなく、行政と住民が交互に座って、車座になり、さらには和室で、畳の上に座って話してみたら、少しは双方の意識が変わるのではないかと思うのです。住民も要望を叫ぶのではなく、行政もたんに反論するのではなく、お互いに生きた対話が交わせるようになる、そんな可能性が他にもあるのではないのでしょうか。

加藤哲夫『市民の日本語』ひつじ書房、2002年、p.7。



行政と市民では「言葉が違う」とする。そのトランスレートをできるのがNPOでなければならないという加藤氏の持論は、震災後、折に触れ思い出す機会が多くなりました。

また行政と市民の間だけでなく、市民同士の間もつなぐことのできる支援団体が求められているように思います。多様な意見を持った市民や団体が結集できる場を用意し、行政への政策提言がきちんとできるパイプ役が必要です。今回の放射能問題では、どうしても被災者の支援の問題と、放射能汚染への対抗問題が分けられがちのように思います。これは、放射能問題を扱うと行政が嫌がる傾向があるように思いますし、また支援団体側でも一部には「怖い」問題でアンタッチャブルという認識があるように思います。「放射脳」などと揶揄されるのは悲しい傾向だと思います。

汚染地では放射能と「強制的に共生」しなければならない状況です。それは長期戦になりますし、非常に残酷で負担の大きいことだと思います。突如降りかかった公害汚染は、「自分の所のことだから自分達で何とかせい」という話ではないと思います。そして、汚染の多寡に関わらず、放射能汚染問題はすでに日本全国で無視できないものとなってきており、「放射能との共生」は(もちろん誰も望んでいないのですが)、誰にとっても「地続き」の問題なのです。

もちろん問題の本質的な解決と責任追及が適切に求められるのは当然ですが、汚染地の住民の方々に対しては、住民除染も含め、より安全で安心できる暮らしが持続できる仕掛けと、それを後押しする支援が必要だと思います。除染ボランティアが果たしてそれにどれだけ、どのように寄与できるのか。実際に支援に入っていらっしゃる方々に意見を色々とお聞きしたいですし、それ以外の方々とも今後の議論を期待しています。

除染する費用分100万を与えて避難させよという話が出るたび、100万あげるので、あなたの自宅と仕事を福島県から避難してきた人にお譲りください、といったらどれだけの人が賛成してくれるのだろう?とは思います
(ツイッターまとめサイト「住民除染を進めるとかえって専門的な除染の必要性が増す?」でのコメント欄 @surumeno13 さんのご意見)


福島県外の方の「支援」というものは、時に(そして割と頻繁に)県内在住者の欲しいものと真っ向から対立しているという事実を理解していただきたいという意図で、あえて感情的な言葉とともに引き合いに出しました。それ以上の個人的感情はありません。失礼いたしました。 願わくば、支援したいというせっかくのお気持ちが無駄になりませんよう。
(ツイッターまとめサイト「郡山取材で聞いた話の裏付けと検証」でのコメント欄 @sevenedges さんのご意見)

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